東日本大震災からもうすぐ8年、WASURENAI 3.11
あの大震災から、もうすぐ8年が経とうとしています。あの時、幼少期だった小さい子でさえも、津波と大きく揺れた地震の恐怖は覚えていると言います。
東日本大震災、当時は日本が壊滅するとまで言われ、政府は混乱、現地では自衛隊や消防士、ほか様々な職種の方が、東北の支援に派遣されました。
今から8年前の3月11日、午後2時46分に誰も想像していなかった事が起こったことを、私達はこれからも忘れずに生きていかなければいけません。
当時、私は中学1年生でした。
学年全員が多目的ホールに集まり地元の方の講演会を聴いていました。
すると教室のガラスが震える音がし始め、大きな地震が起こりました。
他の生徒は、「地震じゃん!笑」と冗談半分に笑っている生徒もいれば、悲鳴を上げる生徒もいました。
教室中が混乱していました。すると、剣道部の顧問の先生が、
「静かにしろ!!死にたいのか!!」と
私を含む生徒たちに渇を入れました。
教室は一斉に静かになり、地震が収まるのを待ちました。しかし、中々地震は、収まる気配を見せずむしろ強まるばかり。
何分間か横揺れを繰り返した結果、やっと地震は収まりました。
その後、学年で体育館へ移動しました。その道中、教室のガラスが割れ廊下に散乱していました。
その時、中学2年生は修学旅行へ行っており中学3年生は卒業したばかりだったので、学校には私達1年生しかいませんでした。その結果、1年生だけの移動で済んだので、移動でパニックにならずに迅速に移動が出来ました。
その後、途中で学校が終わり、寄り道せずに早く帰るようにと教頭先生に言われました。友達と歩いて帰っている途中であるカフェ店があるのですが、そのカフェ店からはテレビがよく見えるんですよね。そのテレビをチラ見したときに、日本列島が映っており太平洋側が真っ赤になっていました。
「すげえ!!」という心情とワクワクと共に、家へ帰りました。
その後、あの真っ赤な枠が大津波警報だということを知りました。
津波は町を破壊し、人々の命を奪い、大切な物を奪っていきました。
福島第一原発が水素爆発し、放射能が漏れ出している事を知ったときに初めて、
死を覚悟しました。 「死ぬんだなと」
色々なスポーツ選手や著名人が東日本のために祈りや勇気を届けました。
日本卓球のユニフォームには、8年経った今でも、胸ロゴに
WASURENAI3.11の文字が
東日本大震災の被害
あれから8年が経とうとしています。この震災で家族を失った方や、宝物を失った方が沢山います。被災地は、今では瓦礫の処理は色々な方のご尽力でほとんどが片付いていますが、今でも平地が広がっています。
復興は思った以上に、行き届いていないのが現実です。しかし、記憶を風化させてはいけないのが私達の使命です。同じ痛みを分かち合うことで少しでも被災地の痛みや想いが感じ取れればいいのかなと思います。勿論、僕もそれを感じながら生きていこうと思います。